「ママ、今日どこに行くの?」
4歳になる子どもからの珍しいその言葉に一瞬、言葉が詰まった。
何と答えたのかは、覚えていない。
ただ、返ってきた言葉はハッキリと覚えている。
「戦いに行くんでしょ。知ってるよ」
ごまかそうとした私に、その言葉が刺さった。
昨夜そんな話をしたような気がする。
きちんと聞いて、受け取っていたことに驚く。
いつもと違う家の空気感が、4歳児でも考えざるをえない状況を作ったのかもしれない。
離婚成立から約2年半が経とうとしていた。
養育費減額調停を起こされ、裁判所へ向かうために黒いジャケットを引っ張り出した日の朝のことだった。
離婚届を出した頃の、現実味のない感覚を今でも覚えている。
事務処理をひと通り終わらせた私は、在宅ワークをしながら保育園入園準備をすすめた。
4月からの入園が決まっていた。
入園まではできるだけ子どもと過ごすために、仕事は夜中にまわした。
「生きている」という実感は薄く、「生き延びるため」にエネルギーを注いだ。
自分の子どもが存在するという現実が 夢の中の出来事のようで、
どこかにいる“本当のママ”の代わりに世話をしているような感覚が抜けない日が続いていた。
「性格が君に似たらマジで最悪」
今でも刺さったまま抜けない元夫の言葉。
当時は、まだそれを無理に引き抜こうとしては血を流し続けていた。
「私だけの価値観で育てば、いずれこの子も同じ壁にぶつかる日が来るかもしれない」
そんな強迫観念のようなものが、人と関われる場所へと足を運ばせた。
そのおかげか、子どもは人見知りをしない。
それどころか“自ら話しかけに行く子”になり、想像以上にコミュニケーション力が育った。
子どもにとって、私以外の「居場所」ができるように、同じ場所・同じ顔のあるところへ定期的に行った。
初めての場所でもおじけづかないように、知らない場所・知らない顔のある場所もたくさん訪れた。
人と関わることを喜びに変える子どもと裏腹に、当時の私は小さな子連れの男性を見ては胸が締め付けられる思いだった。
その時の想いを言葉にすることは難しい。
あまりにも多くの感情が、ずっと渦巻いていた。
子どもが眠った後に、涙しながらパソコンと向き合った日も数えきれない。
そんな日々を過ごしながら数カ月がたったころ、突然元夫からの通知があった。
「面会交流がしたい」
私含め周囲のほとんどが
「子どもに会いに来ることはないだろう」
そう予想していた。
そして、そのことが私を安心させていた。
それなのに。
生まれた直後から離婚成立まで、一度も会いに来なかった人がどうして?
写真を送っても、子どもがどうしたと報告をしても一切の興味を示さなかった人がどうして?
どんなに触れ合って欲しいと願っても、叶えてくれなかった人が今更何をしに来るのだろう。
その通知ひとつで、気が付けばお腹を壊していた。
面会当日、痛む胃をかかえて元夫を待つ。
どんな顔をしてくるのかと思えば、いたって普通の顔でクリスマスプレゼントを持って現れた。
まだ2歳にも満たない時期だったため、交流場所は未就学児が遊べる施設にした。
当たり障りのない会話をしながら、子どもが遊んでいる姿をふたりで見守った。
周りから見れば、3人家族に見えただろうか。
数時間程度で帰ると思っていたが、元夫は閉館時間まで帰ろうとしなかった。
帰りは後ろ髪をひかれるような顔をしていた。
何を思っているのか全く分からなかったが、それを話そうとする様子もなかったし、私からも聞かなかった。
ただ、その日がようやく終わり、胃の痛みが消えたことに安堵したことを覚えている。
「面会交流は子どもの権利」
「親の都合で会う会わないを決めてはいけない。」
離婚時に何度も、何度も法律を扱う方々に言われた。
子どもに会うこと自体は私も望んでいた。
でも、いかんせん自分の身体が相手の名前を目にすることさえ拒絶した。
相談機関へ「父親と子どもだけで面会する方法はないか」と聞きに行ったこともある。
そこでは「子どものメンタルへの影響」や、「実の父親とはいえ関わりのない大人に預けることへのリスク」を説かれた。
正論だと思う。言い返す言葉がなかった。
それでも私は納得できなかった。
私が心身を壊すことでの子どもへの影響は関係ないのだろうか。
2度目の面会は、子どもが3歳になろうとする時期だった。
それが最後の面会となるとは思いもしなかった。
最後に面会した場所を通ると、子どもは
「パパに会える」
と今でもたまに期待の笑顔を私に向ける。
それがいつも私の胸を締め付ける。
子どもに返す言葉も、その時の自分の感情の名前も見つからないまま、
元夫に対しては、好き・嫌いを越えた“なにものか”に形を変え続ける。
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