シングルマザー、はじめました。vol.2 ―整い始めた生活―

子どもと2人で暮らし始めた地域は、新興住宅地。

都会ではないが保育園は不足していて、2歳になろうとする子どもが入れる枠はなかった。

なんとか入れた小規模保育園の入園式には、わが子以外みんな両親が参加していた。

「今どきはみんな両親行事に参加するのか」とさみしくなった。

小規模保育園だったため、年2回の参観日以外は行事が一切ないことが救いだった。

そしてその参観日は、コロナ禍の影響がまだ残る時期だったため「1人まで」の制限があり救われた。

この「父親不在のつらさ」は永遠に続くものだと思っていたが、

保育園を卒園する頃には何も感じなくなっていた。

 

人はどんなことだろうと「慣れていくもの」だということをあらためて実感した。

   


   

初めての保育園に緊張していたのは私の方だった。

当時から人見知りをしない息子は、毎日吸い込まれるように教室へ入っていった。

こちらの方がさみしくなるほどに。

そのため、慣らし保育は順調だった。

子どもの様子を、自分以外から毎日聞くことが初めてで、とても嬉しかった。

自分が子どもに感じている性格が、間違えていないと思えることが自信にもなった。

 

嬉しいテンションのまま、先生に「こんなことがあった」と話したいことがたくさんあった。

でも、そんなことを聞かされる先生は迷惑だろうと話すことはなかった。

連絡アプリには、毎日先生が園での様子を書き込んでくれた。

私も家での様子を書こうかと思ったが、忙しい中読むのも大変だろうと、やめた。

体調不良で早退した次の日や、伝えておかないといけない業務連絡以外、

私の連絡アプリのコメントは毎朝決まって「元気です。」のひとこと。

それ以上の言葉を持ち合わせていなかった。

   

他の家庭がどんなことを先生に伝えているのか覗いてみたいと常に思っていた。

   

私は離婚騒動で生き方そのものを全否定されていたことがまだ後を引いていた。

そのため、「自分の話をしてもいい」と思えなくなっていた。

その頃の私は、どんな相手でも人との距離感を図れずにいた。

友人、新しく出会った相手など関係性に関わらず、

「私の話など誰も聞きたくないだろう」と思っていた。

「その後どう?」とたまに連絡をくれていた友人には助けられた。

   


   

慣れない生活が少しずつ日常となってきたころ、少しずつ気持ちも安定し始めた。

日々子どもが成長する姿が愛おしく、昨日できなかったことができるようになっては喜んだ。

ちょうど子どもの成長がその時期だったからか、保育園での指導のおかげか、言葉も増えてきて喜びは増える一方だった。

 

でも私は満足しなかった。

それを一緒に共有して、喜び合う相手が欲しかった。

両親に言っても、同じテンションではなかった。

何度か元夫に伝えたいと思ったときがあったが、興味ないだろうと思い堪えた。

 

「昨日食べてくれなかったこれを、なんと今日は食べることができたの!」

「本当!?すごいじゃん!」

たったそれだけでよかった。

 

「たったそれだけのこと」は叶わないまま、いつしか望まなくなっていた。

 


 

今となってしまえば、

たとえあのまま結婚生活を続けていたとしてもその会話が出来たとは、到底思えない。

“父親の存在”に期待しなくていい分、ひとりの方がよほどラクだとわかるようになった。

不思議なもので、そう考えるととても幸せとさえ思うようになった。

でも当時の私は「世界で一番不幸な母子」だと本気で思っていた。

   


 

今の生活が子どもにとって「最良の環境」とはいいがたい。

でも同時に、「これ以上ないほど最悪な環境」ではないとも思う。

今の二人の状況での「最善」を取りながら、私たちのペースで生活をしている。

まだその道の途中ではあるが。

   

「道を自分で選ぶことができる」

その感覚が、私たち親子の成長を見守ってくれる。

 

こうして少しずつ、私たちの生活は整い始めた。

願わずとも、このままこの先ずっと平和が続いていくものだと思っていた。

この絵に描いたような平和な時間が

想像以上に早く終わることを、このときの私は知る由もない。

 

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この記事を書いた人

出来事と思考の断片を言葉にしている。
実体験をもとにした物語を連載中。

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