離婚へのカウントダウン vol.1 ―離婚意志の告白―

「子どもを産んだら性格が変わると思っていたのに変わらなかったから別れたい」

そういわれたのは、出産してから1か月がたったころだった。

出産してから私は一カ月間、ただただ必死に生きていただけだった。

産院を退院した日の夜、産まれたばかりの息子が痙攣を起こした。

実家からすぐに病院へ向かったのは21時か22時頃。

受診する頃には痙攣はとまっていて「モロー反応では?どこにでもいる元気な赤ちゃんですよ」と言われて帰されそうになった。

「動画を撮っているので見てもらえますか?」

そう言い見てもらうと、さっきまで朗らかだった医師の顔が固まり、他の医師を呼びその動画を数人で話し合いながら観察した。その時点でも診察室にいる息子は他の赤ちゃんと何ら変わりはなかった。

でも、その動画の様子を見て検査をしてもらえることとなった。

新生児の痙攣が危険な状態にさらされているという事実を、私はこのとき初めて知った。

その後、検査室から出てきた医師から「検査中に直接痙攣を確認しました。原因を追究するための検査に入ります。入院の方向になると思うので、書類を読んで署名をお願いします」と言われた。

それからどれくらい経ったのか分からない。

また検査室から出てきた医師に「原因がまだ分からない」と告げられた。

感染症の可能性を考えて、私の感染症の有無を聞かれた。

そして感染症の可能性を考えてそれ用の薬と痙攣を止めるための薬をいれ、今は落ち着いていると言われた。

大人でもかなりの痛みを伴う「脊髄検査」も試みること、新生児でかなり細くてうまくいきにくいこと、赤ちゃんの身体のことを考えて2度までの挑戦が限度だということを聞いた。

検査をして結果がすぐに出るものはすべて陰性、結果が出るまでに時間がかかるものもあることや今後のことを聞き、NICUに緊急入院の手続きを済ませて帰るころには、25時を越えていた。


痙攣の原因が分かったのはそれから2、3日が過ぎたころだった。

感染症でも大病でもなく、吸引分娩時に起きた「頭がい骨骨折」による出血による痙攣だと説明を受けた。

出血はすでに止まっていること、頭がい骨がまだ固まってない新生児のため血液の抜け道がたくさんあることから、経過観察をすることになった。そのことで、ようやく両手足につながれたいくつかの点滴は外された。

NICUに入院中は、朝夕のお見舞を約2週間続けた。そして一般病棟に移ったタイミングで付添入院が始まった。「ようやく子どもと一緒に過ごすことができる」と喜んだのも束の間、すぐに打ちひしがれることとなった。


当時コロナ禍の影響で、付き添えるのは赤ちゃんの両親のみ、病室での面会禁止になっていた。

夫は仕事もあるため県外の自宅へ帰宅し、すでに日常生活に戻っていた。

そのため、入院や子どものことはすべてひとりで担った。

産後の不正出血、起き上がるのにも困難な坐骨神経痛と私の両親さえ面会も来ることができない孤独感。

それでも、自分のことだけならまだどうにでもなった。

さらに私を苦しめたのは、初めての子育てのはじまりを4人部屋でひとりですることだった。

小児病棟とはいえ、新生児は息子だけ。

小学生に行くか行かないかくらいの子たちと同じ病室の中、夜中になるべく泣かさないように授乳する毎日。

緊張から、授乳時間になる前には自然に目覚めた。

昼になると、その反動で眠気が襲う。でも、周囲の子どもたちはとても元気にはしゃいでいる。産後直後の身体にその楽し気な声はナイフのように突き刺さった。

ナースステーションに行き、体調が悪くなるからどこか静かな場所にいって落ち着きたいと相談したこともある。

またある時は、「脳波検査のため検査時間に寝かせたいから」と睡眠時間を検査時間に合わせて調節してほしいと言われた。

病棟保育士に相談しに行くと「新生児すぎて、それは難しい」と言われた。スマホで検索しても、「新生児を起こしておく方法」などあるはずもない。プロが出来ないことを、初めて新生児と触れ合う私にできるはずがないと思いながら、検査の時間まで話しかけたりしながら思いつく方法で起こしておく努力をした。

何度か失敗を繰り返し、「明日だめなら睡眠薬を使う」というところまできた。医師もその手段はとりたくないという様子で、頭を抱えていた。

それから医師の提案でミルクを飲んでから何分ほどでで眠るのかを逆算し、ミルクの時間を調整することでなんとか脳波の検査を終えた。それでも途中で目覚め、検査時間は十分ではなかったようだ。

またある時は、CTやMRI検査を行った。

大人でも耳栓を使うくらいに大きな音に驚く検査だと言われた。赤ちゃんの負担にならないように努めるが、大きく泣く可能性がある。でも、安全の配慮をして行うから心配しないくて大丈夫だと事前に伝えられた。

私も受けたことのない検査の数々を毎日こなす息子。「がんばれ、がんばれ。」そう言うことしかできなかった。

そして、外で待っていたら医師から伝えたとおりに「ギャー!」と大きく泣く声が聞こえてきた。

たまらずその夜、電話で夫に伝えた。そして返ってきた言葉に絶望した。

「うわー。俺、それ聞きたくなかったわ。」

どういうつもりでそれを言ったのかは分からない。

でも私はその言葉を受けた日から、医師からの決定的な検査結果以外を伝えることをやめた。

数日後の話になるが、彼は自分が発したこの言葉を「そんなこと言ったっけ?」と覚えてさえいない。

更なる孤独に襲われた入院生活となった私に、LINEで医師から伝えられた検査結果だけは夫へ報告していた。

ある日「めちゃくちゃ分かりやすくて驚いた」と感激している様子で電話がかかって来た。

今考えると、出会ってから別れるまでのあいだに、彼が私を本心から褒めたのはこの時だけだったと思う。


付添入院が始まって約2週間がたとうとした頃、私は限界を迎えていた。

何度か夜の見回りに来た看護師さんに私が子どもを抱えたまま泣いているところを見られ、ナースステーションで預かってもらいながらやり過ごす日々。

「いつになったら退院できますか」

そう聞いては看護師さんを困らせた。

ようやく退院の朝を迎えた日、夫が県外から迎えに来てくれた。

義母は「わざわざそんなことをしてあげなくてもいいのに、息子は優しいから。」と電話で私に言った。

その足の車内で突然夫が「次の子どもをどうするか」をテーマに話を始めた。

約1カ月の入院で『命がつながった』ことにほっとしている私との、テンションの違いに返す言葉がなかった。

「俺はもう子供は作らなくていいと思うんだ。」

何を聞かされているんだろう。私は今、この子と生還してきたのに。という想いだった。

それからしばらくBGMと化した夫の話は、気が付けばサビ部分にさしかかっていた。

「子どもと君のことを考えたら、2人はここに残って暮らした方がいいと思う。」

突然の刺激的な言葉に、反射的に答えた。

「え?どういうこと?」

すると吐き捨てるように、苛立ちの感情が乗った言葉が返ってきた。

「はっきり言わないと分からない!?分かりました。じゃあ言います。別れましょう。」

私が聞き流していた夫の話の中に、重要な話が含まれていたのだろうか。なぜ怒っているのかさえ分からなかった。ただ、その言い方に「なんだこいつ」と思ったまま開いた口がふさがらなかったことを覚えている。

始まりの次の子どもの話から、一体全体どうなってその言葉に行きついたのだろう。

「???産んで一緒に育てるってことで、産む前にさんざん話したよね?」

ハッキリと「別れる」と言われても、何を言っているのかは分からなかった。

「そのときはそう思って、産んでほしいと言ったけど。子ども産んだら性格が変わると思ってたけど変わらなかったからやっぱり無理」

そういわれて、また言葉を飲み込んだ。

子ども産んだら性格が変わる?

私は子どもを産んでから何をした?

病院で必死に子どもを守っていただけのつもりだったが、私は彼に何かをしたのだろうか。

思考がめぐる中、義母の「わざわざそんなことをしてあげなくてもいいのに」という言葉の意味を悟った。

音楽もなく静まり返った車内で、エンジン音だけが家族の行く末を知っているかのように鳴り響いた。

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この記事を書いた人

出来事と思考の断片を言葉にしている。
実体験をもとにした物語を連載中。

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